小脇に抱えて生きる

こんにちは。
日本タナトフォビア協会代表の浦出美緒です。
書きたい欲や内容はいくらでもあるのに、手を付けられないというのはなんでなんでしょうか…?
と思い、一つは「完璧に書かなくちゃ」という完璧主義が邪魔をしているからなのかもな…といったんの結論に至った浦出です。
(ただの言い訳かもしれない)

これからは完璧を求めずに、私の思考回路ダダ漏れの記事が続くかもしれませんが、ご容赦ください。
そういう記事は今後noteに綴るかもしれませんが…今日はこちらに書いてみようと思います。

今日は「小脇に抱えて生きる」。
最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

恐怖は無くなるか

死の恐怖が強い人、特に無宗教で死後は無だと直感的に信じてしまう人にとっては、
死の恐怖が無くなることはあるのでしょうか?

拙著『死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。』(SBクリエイティブ)の第5章でお話をうかがった作家の貴志祐介さんは、死の恐怖が無くなったと仰っています。
稀に、SNSなどを見ていてもタナトフォビアを克服したという方も見受けられます。

ですので、タナトフォビア的な死の恐怖が解消される、という方も一定数いらっしゃるのだろうと思います。
ただ、そうした方はごく少数なのではないか?というのが私の持論です。

死の恐怖の真の解消は、

「死後の無=私という自我(意識)の永遠の喪失」を受け入れる

以外にはない

と、考えるからです。

もちろん「死後の無」が全く怖くないという人も一定数いますが(私の個人的な感覚ではタナトフォビアと同様10%程度か…)、
一度怖いと感じた人がそちら側に行くのは、なかなかにハードな道なのではないかと感じます。
それこそ原始仏教の「悟りを開く」状態で、相当な修行が必要なのではないか…と。

あるいは、何らかの宗教orスピリチュアルを信仰する、
死後の世界はあるのだとする世界観に生きる、
以外にはないだろうと思うのです。

ただ、死の恐怖が濃淡を伴っているのは、多くの方が感じるところではないでしょうか?

恐怖の濃淡

恐怖の濃淡は人によって異なりますが、同じ一人の人の中でも恐怖が強い時期と弱い時期があります。

SNSでは、「タナトフォビアが治まっている」「タナトフォビアをぶり返した」というつぶやきもあり、時期によって恐怖が落ち着いたり強まったりしている方が多くいます。

私自身は、年に数回死が怖い夜が訪れるこれまででしたが、
片想いばかりしていた大学時代は恐怖が影を潜めていましたし、
仕事を覚えるのに必死な看護師新人時代も<私の死>という一人称の死の恐怖を感じる機会は少なかったです。

ここ2年は、ずっと死の恐怖ばかり考えてきました。
特に拙著の執筆に当たっては、ずっとずっとそれにばかり直面してきました。

また、この協会を立ち上げてからは、会う人会う人に「私、死ぬのが怖いんですよ~」と、半ばヤバい奴だと思われつつも、そんな自己紹介をしてきました。

その反動でしょうか…
今は、<死の恐怖>と<私>の間に、薄いレースのカーテンが引かれているような感覚なんです。

その恐怖は、午後の日差しみたいにうっすら私の方へやってくる。
でも、直射日光ではない、あるのは分かるけどよく見えない…。
そんな感覚です(同じような方いらっしゃいますかね?)。

小脇に抱える方法

そんなわけで、

恐怖自体を無くすのではなく、小さく小さくして、小脇に抱えて生きる


のが、案外有効な方法なんじゃないかと感じている今日この頃です。

じゃあ、どうやってこの恐怖を小さく小さくするんじゃ。
小脇に抱えられないぞい!大きすぎ!
というお声も聞こえてくる…(空耳かもしれません)。

私がこれまで実践して有効だと感じたのは、次の3つです。

  • 仲間を見つける
  • 人に話す(ただそばに居てもらうだけでもよい)
  • 多様な死生観に触れる

です。

「仲間を見つける」

仲間を見つけましょう。
死の恐怖に理解のない「死が怖くない人」は、恐怖が強い時には心を乱されたりするので、必要以上にカミングアウトしないことをお勧めします。

同じ死の恐怖を抱えている人は、本当に面白いことに、少し話すだけで「同じ人だ!」と理解できます。

ただ、同じ恐怖を抱える人と話していて(話を聞いていて)、恐怖で引きずられてしまいそうだと感じる場合には、正直に相手に伝えて、少し距離を取る必要が生じる場合もあるでしょう。

基本的には、この人は同じ恐怖を抱えているな、と感じられる仲間が、一人いるだけで、案外心強く感じるものです。

拙著刊行後、多くの方にご感想をいただきます。
「私一人かと思っていたけど、そうではなかった」
「自分が書いたのかと思った」
「70代になって始めて、同じ考えの人を見つけて嬉しかった」

存在だけで、人は孤独を和らげられるのだなと実感します。
私が何よりいつも勇気づけられています、ありがとうございます。

「人に話す」(ただそばに居てもらうだけでもよい)

最初は、同じタナトな人に気持ちを話してみましょう。

エリザベス・キューブラー・ロスは『死ぬ瞬間』の中で、死に向かう過程での「抑うつ」には2種類あると言っています。

一つは、病によって仕事ができなくなった、や、家族の状況など、日常生活の状況の変化に伴う「反応的な抑うつ」。

もう一つは、永遠の別れに向けた「準備的な抑うつ」だと言います。

前者は医療者や家族等の協力によって解消されることもあるが、後者はそうはいかない。
なぜなら「過去に失ったことが原因となるのではなく、これから失うことが気がかりなため起こる」ものだからで、”すべて”を失うことが生み出す抑うつだからだ、と死生学の島薗進氏も述べています。

そんな「準備的な抑うつ」はタナトフォビアにとても近いと考えます。
未来のいつかの時点で”すべて”を失う可能性を、タナトな人は普段から感じてしまうのです。

しかも、来世に望みを託せない、希望を持てずにいる、それはとても過酷な状況と言える。

そんな時、大事なことは

  • 孤独”を深めないように
  • ”無力感”を生まないように

誰かに(できればこの恐怖に理解がある人に)静かに寄り添ってもらう、ことだろうと思っています。

仲間がいると心強い、そして、孤独感を深めないように・人生に無力感を抱かないように、心の重荷を少しずつ小出しにしていけば、この恐怖も小脇で抱えられるようになったりするんじゃないかと、感じています。

そんな場を作れたらな、と思って
来る2026年2月21日(土)に第1回のタナトカフェを開催します。

詳細は下記です、ぜひ奮って遊びに来てください!

第1回タナトカフェ

多様な死生観に触れる

そして、多様な死生観に触れるのも良いことだと感じます。

全く異なる死生観の人と話していると、
どうしてそんな死生観を持つにいたったのか、私の考える死生観への感想など、
新しい視座を与えてくれます。

「そうかも」と思えたり、
「いやいや、絶対違うやろ」と思ったり、
様々ですが、
案外家族や友人もそれぞれ全く異なった死生観・世界観を持っているものです。

ましてや、見知らぬ人をや。
ということで、死生観についてフランクにお話できる対話会なども、案外とっても楽しかったりします。
タナトな怖さが強い人は無理せずに。

私自身は、一般社団法人デスフェスの理事もしており、
毎年4月には「Deathフェス」というお祭りを渋谷で行っています。

仏教からキリスト教から、孤独死の問題や、介護の問題、死者AIの話だったり、お金×死やコミュニティ×死だったり、多種多様な話題が集結しています。

そんな場所で、「死が怖い人もいるよ!」「死って超怖いよ!」「死ってポジティブだけじゃないでしょう?」というプレゼンスを築きたくて、私も活動しています。

一方で、死後の世界もあるのか?死とは何だ?の答えや希望を、探しに出かけているのかもしれません。

そんな中でここ最近揉まれ続けているからでしょうか?
対話すること、お互いの死生観を大事に取り扱うこと、耳を傾けること、の効力を強く感じるようになったのです。

タナトフォビアな気持ちが強い時には、刺激がもしかすると強いかもしれません。
そんな時には、派手な頭の私を目印に、遊びに来てくれたら嬉しいです。

そして、最近はもう一つ。
読書が私を助けてくれています。

死が怖い人が書いた名作、はいくつもあるのだと、最近になって気づかされています。

  • 中島義道さんの『哲学の教科書』
  • カミュの『異邦人』
  • 手塚治虫さんの『火の鳥』

他にも沢山あるでしょう(皆さんのおすすめも教えてください)。
中島さんの本は、最近読んで、「そうそう!そうです!そうなんです!」と激しく頷いたり、にやにやしたり、泣いたり、とても忙しかったです。

本は対話。
本の中で、著者と対話して、心の重荷を少し分け合って、そうすると前を向く勇気がむくむくと湧いてきたりします。

本という仲間も沢山見つけたいな、と思っています。

最後に

今日は、好き勝手書かせてもらいました。
ここまでお読みくださりありがとうございます。

また、こんな感じで、色々なことを徒然なるままに書けたらいいなと思います。
もっとエッセイ風にも書いてみたいけど、なんだかHPの記事ってそんな風に書きづらいのはなぜだろう…。

とりあえず、更新の頻度を昨年の10倍増しくらいでは行っていきたいな…、と考えております。

今日も、素敵な一日になりますように。

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